戦争画とコレクション展をみた東京国立近代美術館の一日

東京国立近代美術館で企画展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」をみた。

戦時中に画家たちが描いた「戦争記録画」(戦争画)は敗戦後占領軍に接収され、1970年「無期限貸与」という形で返還され、この美術館で保管されていたことは知っていた。戦争画を常設展の1室に集め展示しているのを見たことも何度かあった。
今年は戦後80年の節目の年なので、280点のもっと大がかりな企画展示が開催された。「美術品」が果たした「記録」という役割と、それらを事後に振り返りながら再構成されていく「記憶」の働きに注目するというのがコンセプトだ。

藤田嗣治「哈爾哈河畔之戦闘」(1941)
戦争記録画というと、たとえば向井潤吉「四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)」、鶴田吾郎「神兵パレンバンに降下す」や宮本三郎山下、パーシバル両司令官会見図」が思い浮かぶ。戦闘シーンの絵が代表的だが、「戦時の美術」はそれだけではない。解説パネルによれば、銃後の暮らしをテーマにした作品、大陸・南方、歴史主題、桜や富士山のような「象徴」、数は少ないが新人画会(松本竣介靉光鶴岡政男ら8人の会)のような抵抗の画家の作品もある。
構成は、1 絵画は何を伝えたか、2 アジアへの/からのまなざし、3 戦場のスペクタクル、4 神話の生成(肉弾三勇士」「アッツ島玉砕」など)、5 日常生活の中の戦争、6 身体の記憶、7 よみがえる過去との対話、8 記録をひらく、の8章から成りパースペクティブが幅広い。
まず感心したのは、たとえば2章の内訳が、1 朝鮮・満州観光のまなざし、2 満洲の田園風景の虚実、3 五族協和のスローガン、4 満州・中国観光と戦争、5「行軍」の情景、6 空爆の視点、7「思想戦」と美術、8 大東亜共栄圏の夢、と絵のテーマでしっかり分類・分析されていることだ。
次に、展示物は美術作品だけでなく、「写真週報」、アサヒグラフなどの雑誌記事近藤日出造などのマンガ、「強く育てよ御国のために」「進め一億火の玉だ」といったポスターや国策標語などまで幅広く集められていた。毒ガス対策の「空襲!備へよ防毒面」(藤倉工業 1930)の民間企業の商品ポスターもあった。ラヂオ・テキスト国民唱歌1輯「海ゆかば」ほか(日本放送協会 1938)も楽譜付きで並んでいた。総力戦なので、前線だけでなく社会全体が戦時社会になっていたことがよくわかった。計画的に戦時社会を構築していたわけだ。当然、歌謡曲、映画、講談など庶民の娯楽、芸能もそうだっただろう。これなら「教育」の力で、子どもを続々と愛国少年、愛国少女に育成できるのは当然だ。「共栄圏仲良シ双六(栄寿堂)というゲームもあった。おそらく現在のイスラエルウクライナもそれに近くなっているのだろう。
展示の終わりに年表があった。満州事変の1931年から日中平和友好条約調印の1978年まで48年の時期のものだ。これでみると45年の敗戦までが14年、敗戦後が33年、1/3と2/3、戦後のほうが長い。パンフの作品出品番号によれば、さすがに1945年以前が多いがそれでも54%に過ぎず、戦後の作品がかなり多い。丸木位里・俊夫妻の「原爆の図(1950-51)広島市民が描いた「死んだ母親に水をやる子供」「負傷者がぞろぞろと逃げて行く」「足を負傷した朝鮮の婦人」(1974-75)などの作品があるからだ。まさに歴史を「記憶」で描いた絵だ。さらに浜田智明「初年兵哀歌」(1951-52)岡本太郎殺すな(1967)、中沢啓二「はだしのゲン(少年ジャンプ73.11.12号)などの反戦作品もあるからだ。水木しげる総員玉砕せよ!」、手塚治虫ZEPHYRUS(1971)のマンガも展示されていた。
問題は、8章「記録をひらく」という挑発的なブロックだ。内容は、真喜志勉が1977年に宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」も素材に使い米軍のジェット戦闘機と女性のヌードを組み合わせた「無題」という作品、向井潤吉の戦時中の「マユ山壁を衝く」という戦争画と戦後1962年の「飛騨立秋」という風景画の類似性と「学び」の指摘、小川原修「成都爆撃」と戦後の本人へのインタビュー動画だけだった。
まだまだ課題探索中、開発途上ということだろう。どのように取り組めばよいのか、たしかに難しい課題なので、その努力をおおいに評価したい
わたしの発見をいくつかメモしておく。
●2章8 大東亜共栄圏の夢のコーナーで写真週報の「昭南生まれて1年 ラジオ体操の本格的な講習会」(1943.2)、「二宮さん、ジャカルタへ」という記事をみつけた。昭南はシンガポール、二宮は二宮金次郎銅像のことだ。韓国、台湾の「植民地」でやってきたことを、占領した「大東亜」の地でもやはり同じことをしていたことがわかった。
●神話の生成で、大勝利だけでなく「アッツ島玉砕 軍神山崎部隊の奮戦(藤田嗣二 1943)のような負け戦でも、絵画が「神話」をつくることができることがわかった。
●先月、丸木美術館でみた原爆の図の「水」「火」をみた。これは再制作版で74年に自身の筆で彩色加工までされたとのこと。章タイトル「身体の記憶」や解説文の「肉体絵画」という言葉をみて、死体の山や被爆者が裸体で街を彷徨う行列をリアルにみれば、たしかにそういう捉え方もあると感じた。同じ作品という点では、東松山でみた俊の「解放され行く人間性」をコレクション展で再び見かけた。ただこちらのほうがサイズが大きい気がした。同じモチーフの作品がいくつかあるのかもしれない。
●「ある日の夢(銃殺)」(1950)平安南道安州出身の全和凰(チョンファハン 1909~96)の作品だ。3.1独立運動万歳デモをテーマにしている。これも歴史的記憶の絵だが、加害者・日本に対し、日本人画家とは異なる「厳しい」視線を感じた。
広島市民が描いた「被災の記憶」は制作年代が1974-75年とあるので、30年前の記憶で描かれている。「ものすごい火柱が渦を巻いて上昇し、恐ろしくもあり、きれいでもあった」「水槽の中に折り重なった死体」「長女を火葬し、行方不明の次男の無事を祈る」などその人にとって一番ショックを受けたシーンを再現したものだろう。丸木夫妻が「原爆の図」を描くオリジンのエピソードのような絵柄だった。
この企画展の作品は、これらのサイト(「なぜ「ひっそり」開催?」「チラシ・図録なしの戦争画展」をクリック)で見ることができる。 


所蔵作品展 MOMATコレクションも、レベルの高い作品が並び、また企画力が発揮されたすばらしい絵画展だった。
近代美術館のコレクション展というと、明治、大正、昭和前期、戦後、1960年代、70年代、現在といった時期区分別の展示のような気がしていた。たしかにいまも基本は時系列だが、それに一味加わっていた。
たとえば3室は、岸田劉生の有名な「道路と土手と塀(切通之写生)(1915)1点に焦点を絞り、「岸田劉生切通之写生」は何を切り通したか?」というタイトルで、この絵をめぐる14点の作品で構成していた。この絵の解説に「道が手前にまくれ上がって来るように見える、とある。(岸田は)『むき出しの土が持つエネルギーを捉えたかった』と述べているそうだ。
同時代の作家にも、この絵は大きな衝撃を与えたようで、うち5点は岸田でない別の作家の作品なのだ。椿貞雄「冬枯の道(1916)佐伯祐三雪景色(1927)のように影響が見受けられる作品が展示されていた。
同様にテーマをひとつに絞った展示室が、「山と渓谷」の4室、太平洋戦争突入の1年前紀元2600(1945)年1年に制作された6室の18点の作品、1946-59年制作の女性作家の作品11点を選んだ「戦後の女性画家たち」の7室、山村雅昭の21点の写真作品「ワシントンハイツの子供たち」の9室、アルプのアトリエ/絵画と目的の10室と、全部で12室のうち6室もあった。 
また最後の部屋12室は「ヨコ軸・タテ軸」というタイトルで、数十年単位の幅で作家の新旧の作品を集めて展示する部屋で、今回は石内都、辰野登恵子、毛利武士郎横尾忠則李禹煥の5人がピックアップされた。わたくしが比較的みている横尾忠則でいうと、「青森県のせむし男天井桟敷)」(1967)、「風景」4点(1969)、「責め場」3点(1969)、「見えざる助力者(1969)、「かざぐるま 2004」、「宮崎の夜―眠れない家(2004)だった。初期の芝居のポスターあり、グラフィックあり、Y字路あり、と横尾の作風の展開がよくわかり、しかも質の高い作品が揃えられ、さすが国立近代美術館と感心するレベルの展示だった。


村山知義「コンストルクチオン」
1室ハイライトは、小倉遊亀O夫人坐像(1953)、和田三造「南風(1907)関根正二三星(さんせい)」、加山又造天の川」などの名画14点が並び、あたかも「現物でみる美術教科書」のような部屋になっていた。
なかでも、わたしが時間をかけて見たのは村山知義「コンストルクチオン」(1925)だった。わたしは以前から村山の人生に関心があった。この作品もこの美術館で何度かみているが、いつも展示されているわけでなく、15年ぶりくらいの再会だった。
解説文には「木片、布、ブリキ、毛髪、そして海外のグラフ雑誌のグラビアなど」身の回りにある素朴な多様な素材を材料にしていることと、画面左上に突き出たL字型の木片と中央の下向き矢印の対比を指摘している。L字と矢印の対比はなるほどと思ったが、仔細にみるといろんな発見がある。たとえば画面右下4×3の格子の左から2番目のこげ茶から白へのグラデーション、使用されている8種の木片の木目や色の組合せ、張り付けられた白い革と釘の色、円・三角・長方形・雑誌記事の不定形の組合せなど、コンストルクチオン(構成)というタイトルにふさわしい、いろんな企図を推測できる。そして24歳の村山はきっと楽しみながら一心に制作したであろうこと、またキッチリ組み合わされた仕上がりであることから、(哲学科出身であるにもかかわらず)きっと工作好きで手先が器用な職人肌の人物であったことが想像できる。こういう才能が、舞台美術や店舗設計などに結びついたのだろう。わたしには新たな発見だった。
その他、わたくしが注目した作品をいくつか挙げる。
里見勝三「(1937) 赤の縁取りが鮮烈だった。しかも制作は日中戦争開戦の年である。一方で橋本千代俊「銀嶺」は1942年制作というから敗戦へ歩み出した時期だが、こんな絵を描ける余裕がまだあったことに驚いた。
日比野克彦THE SHOES. VERY PARCO.(1984)はパルコという文字が入っているせいもあるが、いかにもバブル期の商業主義絶好調の時期の作品に見える。わたしにとって日比野はまだ20代だった1980年代のNHK教育TV「YOU」司会者の印象が強いが、2016年から東京芸大美術学部長、22年から学長を務めている。
11室「揺れる境界」にあったシュシ・スライマン」(Negara)(2012-13)。スライマンはマレーシアの作家だ。マレーシアはマラヤ連邦から1963年に独立、2年後の65年にシンガポールがマレーシアから分離独立した。28の顔は、祖先、政治家、父の顔だという。バックの赤と白のストライブはマレーシアの国旗をイメージさせるが、センターの三日月と太陽はまさにマレーシアの国旗である。


シュシ・スライマン「国」(Negara)

平日11時からガイド・ツアーがあることを初めて知った。4階エレベータホールに希望者が集合する。この日は20人前後だったので2グループに分かれる。平日昼間なので9割は女性だ。わたしたちがみたのは、3階の大沢昌助「岩と人」、有馬さとえ「題名不詳」、ソル・ウィット「ウォール・ドローイング♯769」の3作品。
ガイド・ツアーというと学芸員(ガイド)が、作品の意味、作家の経歴、時代背景などを解説してくれるのが普通だが、ここは違う。主役はゲスト(観客)だ。作家名や解説、制作年をみないで、自由に第一印象、不思議に思ったことなど感想を述べ、ガイドが答えるもちろん初対面のグループなので、ガイドの「この風景が描かれたのはどんな地方だと思う?」「描かれたこの部屋はどんな部屋だと思う」といったMC能力やコーディネイトが重要であることは間違いない。しかし基本的に絵をみるのが好きな人が多いので、積極的に感想を述べる人がいるし、それに反応して「私はこう思う」と異論も出る。なかなか面白い企画だった。
ソル・ウィットの作品が、感想を述べるのが一番難解だったが、制作手順などをガイドに説明してもらうといろんな感想が出てきた。こちらが主体的に感想を述べたあとの解説なので、ただ聞いているより体に入り、記憶にもより残る。時間が合えば、今後も参加してみたい。
その他、今年は日韓基本条約60周年の年でもあるせいか、「新収蔵&特別公開 コレクションにみる日韓」という企画展を2階の半分で開催していた。44点の展示のなかで、わたしは新海竹蔵「砧」(1939)という彫刻作品と山田新一「仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業」(1943)に興味をもった。砧は「砧を打つ女」の洗濯棒のことで、どのように作業するのか、はじめて見たように思う。「仁川」のほうは、てっきり戦後占領期の米兵の絵かと思った。バックの風景が明るいせいもあるのだろうが捕虜になった英豪兵を描いた作品とは思わなかった。
常設展も、この作品リスト作家名や作品名で検索するページで大要を知ることができる。

2階テラスから屋外を見渡す
東京国立美術館は1952年12月開館。ただ場所はここではなく京橋だった。いま国立映画ミュージアムがある場所で、以前は日活本社があった。竹橋には1969年6月に移転した。ブリヂストン石橋正二郎が個人で尽力し谷口吉郎設計の建物を寄贈したとあった。
ということは開館がわたしが生まれた年、新館移転が高校2年のときだ。移転1年か2年のときに講演会を聞きにきた記憶がある。ここの4階窓から眺める皇居の内堀の石垣が好きなのだが、それもあってなじみ深い美術館だ。
この日は朝10時過ぎに美術館に入り、昼は2階テラスで食べ、夕方16時に館を後にした。気候がちょうどよかったせいもあるがすっかり満足・満腹の一日となった

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